離婚しよう

いつも通りの夕食時、テレビを見ながら何気ない日常会話をしている最中に旦那が口を開いた。

結婚一年と半年、あまりに突然の離婚宣言であった。


私と旦那は職場で出会った。

旦那が私に一目惚れしたらしく、デートに誘われた。

新入社員の私は先輩の誘いを断ることもできず、あまり気の乗らないデートを重ね、花火大会で告白された。

私は正直旦那が好みのタイプかと言われればそうではなかったが、なんとなく交際は始まり、なんとなく結婚していた。

付き合って見ると、今時珍しいほど仕事一筋の男で格好良く見えた。かなりの肥満体質であったが、抱きしめるとクマのようで可愛いなと思っていた。絵に描いたような九州男児な性格のため、気の強い私と時たま喧嘩はあったがそこそこ幸せだった。

恋は盲目というか、旦那には一銭も貯金がなかったので、結婚式の費用は全額私が出した。貯金はそれですべてなくなったが、また貯めれば良いと思っていた。


結婚生活がスタートして、まずはじめに疑問に思ったのが、旦那の会社の付き合いの多さであった。

仲が良いのは結構だが、ほぼ毎日飲み会、休日は付き合いでパチンコ。私もアルバイトをしていたが、月々の支払いと猫の餌にほとんど飛んで行った。

自分の力で稼がないといけないとわかってはいるが、どうしても生活費が足りず、旦那に言っても毎回五千円札を嫌そうな顔して出すのであった。どうやら、自分以外の人間にお金を使うのが好きではないようだった。

「私はここに住まわせてもらっているのだから、お金の無心はやめよう。私の食費はかからないから旦那の晩飯だけ豪勢にしてみよう」

旦那にもらった五千円で、あれこれ工夫する。肥満体質の旦那のために魚料理や野菜中心の食事を心がけたが「仕事で疲れてるんだから肉が食いたい」と一蹴され、時には作った食事を捨てられた。

あと、飼い猫に対する暴言が目立った。

猫だから何を言ってもわからないと思っていたのか「コロすぞ」と言われていた。その後猫は体調を崩し、病院へ連れて行った。動物病院は費用が高いので、私の財布は底をついた。


それでも旦那のことを好きだったし、このままでは私の家事が未熟なせいで、旦那が家に帰って来なくなってしまうかも……と一層努力した。


月日は流れ、そんな生活にも慣れた時にこの有様であった。

翌日には離婚届を持って帰って「先に記入しろ」と言われ、私は泣きながら記入した。

離婚理由は「私の家事が未熟なので一緒にいて苛々する、不愉快である」とのことで、慰謝料は貰えなかった。

「子供も欲しいって言ってたじゃない」と言うと「子供なんかいらないし、貯金もしない。俺は俺の為だけにお金を使う」と言われた。もうダメだと思った。

姑さんに泣きながら電話をしたが、当たり前のように息子の肩を持った。

心身ともに疲れ切っていたので、弁護士を雇って裁判を起こす気力もなかった。

「せめてお金が貯まるまでここで一緒に住んで欲しい。家事も全部私がやるし、風呂の時間をずらしたり、寝る部屋も別にして会わないようにするから」と縋るように言ってみたが、却下された。

「6月いっぱいで出て行け」と言われ、怖くて頷くしかなかった。

私がもっと働いて、家にいっぱいお金を入れていればこんなことにならなかったのだろうか……と後悔した。


私の親は過干渉で、とにかく実家に帰りたくなかったので、早急にお金が必要になった。

まずバイト先の店長に相談し、シフトを増やしてもらった。

当時のシフトは、週4日出勤の5時間拘束で、収入は大体6万だった。

それから一人で生活するには、週6出勤の10時間拘束で収入17万ほどを目指したが、体調を崩しやすい虚弱体質の私には不可能のように思えた。就職も考えてハローワークへ行ったが、良い職は見つからなかった。

バイト先の店長は部屋を2つ持っていたので「本当に困ったら部屋貸すよ」と言ってくれた。仲の良い主婦の方も「部屋空いてるからおいで」と声を掛けてくれたが、甘えるわけにはいかなかった。

その矢先、飼い猫が入院した。猫を心配する気持ちもあったが、それよりもお金のことで頭がいっぱいになってしまう自分に嫌気がさした。

結局入院費用は全部で7万円だった。給料日に、お給料を全額使って支払った。

食事はバイト先で貰える廃棄のみとなった。

廃棄のない日は1日パン2つで凌ぎ、体重は2週間で5キロ減った。体重を見て「痩せた」と喜ぶ私は病んでるなぁと思った。

発言小町Yahoo!知恵袋で色々調べたが【貯金ゼロで一人暮らし】という暴挙に出る人は中々いないようだった。


そんな中、両親から電話がかかってきた。

「旦那くんと離婚して、そのままスライドでその土地に住むのは許さない。帰って来なさい」とのことだった。

私は毎日涙が枯れるほど泣いた。またあの親の元に帰らなければいけないのかと絶望だったが、現状それしかなかった。諦めるしかなかった。

千葉県で一人暮らししている弟が「離婚するなら、姉ちゃん一緒に暮らそうよ。家賃半分なるし」と言ってくれて心が揺れたが、千葉県で暮らす気はなかったし、親に言ったが姉弟で二人暮らしするなんて許してくれるはずもなかった。

私は広島に住みたいだけなのだ。この土地で自立したかった。人生ってなんなんだろうと毎日考えた。


私は十日後、実家に帰る。

これからどうなるのかはわからない。

とりあえず今は、弟に愚痴を聞いてもらいたい。

歯列矯正

歯列矯正させてください」

大学生の頃、親に土下座した。


私の歯は、上の歯よりも下の歯の方が前に出る、所謂『受け口』だった。

受け口だけでなく、上の右側の1本の歯がぐっと前に突き出ており、下のセンターの歯2本の位置もバラバラだった。


いまだかつて、私よりも酷い歯並びの人を見たことがないくらい、とにかく酷い歯並びだった。

歯科に置いてある歯列矯正の資料よりも酷い。

というか、多分私が通った歯科では、今では私の歯列が参考資料にされているんじゃないかと思う。

その歯医者に初めて行った時、歯の写真ものすごく沢山撮られた。


「え~~」

私の歯列矯正の願いを聞いた親は渋った。

しかし別に酷い親ではない。


私は昔、小学校5年の時、安い歯科に連れて行ってもらったことがあった。

安い歯科の安い歯列矯正の処置(上の歯の裏側にワイヤーを取り付け、後ろから前に押し出すタイプ)を受けていたが、痛さのあまり一度挫折していた。

うちの親からすれば、子供に「今度は溜めないでちゃんとやるよ!進研ゼミ!だからお願い!」と言われているようなものだった。

私が何度も何度もお願いをすると、出世払いでお金を出してくれることになった。


数日後、早速歯医者に行った。

私は受け口なので、まず左右の下の歯を計4本抜いてから、ブラケットを装着して、その抜いた歯の隙間をじわじわ埋めていくよと説明された。

昨今の歯医者の抜歯は全然痛くないので、抜くのは全く苦ではなかったが、抜いた後の歯と歯の間に食べカスが詰まるのが嫌だった。

とにかく早くブラケットを装着したかった。


抜歯も無事終わり、いよいよブラケット装着当日。

セメントのようなものを歯の一本一本に塗り、銀色の土台を装着。

その土台にワイヤーを通し、ブラケット装着完了。

このワイヤーを一ヶ月ごとに締めてキツくしていくらしい。

矯正終了予定は、装着当日からおよそ3年後だと言われた。


ちなみに、私が装着したブラケットの価格は60万円(セラミックで出来た、白くて目立たないブラケットもあるが、こちらは銀のブラケットに価格上乗せ&治りも遅いらしい)。

月々のメンテナンス料が3000円で、これが3年なのでおよそ11万円。

メンテナンスで虫歯が見つかれば治療代がかかるし、時々歯医者の高額な歯ブラシや、うがい薬、歯磨き粉などを買っていたので、総額80万円ほどだろうか。


「最初は緩めから始めるからね。一ヶ月経ったらまた来てね」

担当医師がニコニコして言った。

その時は痛くはなかった。

唇の裏にボコボコした感触があり、口の中が鉄臭かった。

この感覚が最低でも3年は続くのだなと思うと、気が遠くなった。




ここからが地獄の始まりだった。


家に帰ると、段々歯が痛くなってきた。

夜ご飯になって、お米どころか、おかゆすら噛めないことに気がついた。

上の歯と下の歯が当たるだけで激痛。

スムージーなどの液体なら飲めるが、その後の歯磨きが痛すぎて出来ないため、基本水しか飲めない。

夜もずっと歯が痛くて眠れない。

常に歯が浮いているような違和感で、歯茎が痛痒くてたまらない。

口の中が金具で切れて血だらけになる。


何度も痛みに泣いた。

水しか口にせず一週間経った頃、バイト先で倒れて救急車で運ばれた。

この一ヶ月で、身長163センチに対して体重は40キロになっていた。

歯の痛みに苦しんでいる間、10キロ以上も体重が落ちていたのだ。

見た目も信じられないほど痩せていた。

夏休みを挟んで久しぶりに会った友達は、「なんかやつれた?」と言った。

体重が落ちる代わりに、栄養不足で肌も髪もボロボロだったため、痩せるよりもやつれるという表現の方が正しかった。


一ヶ月し、ようやく少しだけ慣れた頃、またブラケットを締めてキツくする。

するとブラケット装着当日の痛みに巻き戻る。

歯列矯正は、最後までそれの繰り返し。

しかも、歯が動き出すと知覚過敏になり、冷たい水を口に含むと失神しそうなほど痛かった。

結局この間の3年間は、肉を食べられなかった。


でも後悔はしていない。

3年後、私の歯並びは芸能人ばりに綺麗になった。

ブラケットが外れた時の爽快感。

担当医師が言った「よく頑張ったね」の一言。

家に帰って、ずっと鏡を眺めていた。

3年ぶりに食べる肉は、それはもう格別だ。


今では口を隠さずに人前で笑える。

横顔を見られるのが怖くない。

写真を撮られるのが嫌じゃない。

メイクが、オシャレが楽しい。

やって良かったと心から思える。

バンド2


文化祭の快挙から数ヶ月経って、私は高校を卒業した。

バタさんは臨時メンバーだったため、バンドメンバーは私と魔界の二人に戻った。

バンドを解散する気はなかった。

私と魔界は正式なドラムを探すため、楽器屋の店員さんに相談していた。

すると楽器屋の店員さんが、私と同い年くらいの男子をドラムメンバーとして紹介してくれると言った。

そのドラムメンバー(Tとする)は、眼鏡をかけていて、まあまあ優しい性格だったが、とにかく音楽に対するこだわりが半端ではなかった。

高みを目指す者としてクオリティが求められ、趣味でやっていきたい私には正直しんどかった。


ここでTの話をする前に、私が文化祭でやった曲は、

・モンゴル800の「あなたに」

ホワイトベリーの「夏祭り」

Doesの「曇天」

サカナクションの「アイデンティティ(サビのみ)」

楽器をやる人ならわかると思うが、アイデンティティ以外は初心者向けの曲である。


新生「超多忙」は、楽器屋の店員さんの紹介で、地元の音楽イベントに出演することとなった。

困ったのが曲決めで、私と魔界はどうしてもモンパチの「あなたに」をやりたかったのだが、Tによって却下された。

Tが次の音楽イベントに向けてやりたい曲は、

東京事変の「閃光少女」

・ファジーコトロールの「モナリザ

と、一気に難易度が上がった。

心なしかドラムが目立つ曲のチョイスが多かった。


超多忙が参加する音楽イベントは、バンド同士で演奏を競い合って、良かったバンドが決勝戦に進めるというものだった。

勝戦は、市内でも有名なライブハウスでやるとのことだった。

正直優勝は無理だなと思ったが、参加するだけでも思い出になるか……と思い、軽い気持ちで練習し、参加した。


するとなんか決勝戦に進む事になってしまった。

そして直後、突然Tがバックレた。

勝戦まであと3日の出来事だった。


もう今から新しいドラムが見つかるわけもなく、超多忙は残念ながら不戦敗になるしかなかった。

ここまで恵まれていないということは、私たちは元々バンドに向いていなかったのだ。

諦めかけたその時、私の超身近にダイヤの原石がいた。

それが私の弟、キョンシーだった。

「一生のお願い。3日でドラム覚えて決勝戦出てくれ」

キョンシーもたじたじである。

しかし彼はやってくれた。太鼓の達人で鍛えられたリズム感を駆使して、3日でドラムをマスターして曲を完璧に覚えた。


無事、最高のドラムをメンバーに加えた「超多忙」は、勢いに身を任せて決勝戦に参加した。

勝戦は観客の投票で決まるので、正直、知り合いを沢山招待したモン勝ちだった。

優勝はできなかったけど、楽しかった。

超多忙は、魔界が子育て中なので活動休止しているが、またそのうちやりたいと思っている。

バンド


高校一年生の春。

仲良しグループの四人で「高校生といえば文化祭でバンドだよね」と冗談でお話ししていた。

私ギターやりたいな、じゃあ私はベースしたいなぁなんて、例え冗談でも話は膨らんでいく。


そして私一人がすぐに本気にして、近所の楽器屋で一万円のベースを買った。

しかし……いや、勿論、皆は楽器を買わなかった。

高校一年生にとって一万円という額は大きく、ただの思いつきに、一万円と短い青春をかけられるほど、皆本気じゃなかった。

私はベースだったから良かったが、ドラムなんて全部揃えたら安くても五万円はした。(ドラムスティックだけ買って、スタジオで練習すれば良い……などという画期的な発想はなかったし、そもそもスタジオの存在を知らなかった。)

私は後悔して、一万円のベースはすぐにインテリアになった。


それから暫くして、魔界という友達が一万円のギターを買った。

私だけがベースを買ったことに対して罪悪感があったのだと思う。

でも私はすごく嬉しくて、高校三年生の文化祭までにいっぱい練習して、ステージに立ちたいと思った。

しかし二人で楽器を弾いてみると、思っていたようなカッコいい音は出なかった。ギターもベースも、アンプに繋がなければ音が出ないことや、エフェクターの存在など、知る由もなかった。

耳を澄まさないと聴こえないほど、小さな音しか出なかったので、つまらないな……と思いながら練習していた。


高校三年生になって、とりあえず魔界と二人で文化祭の有志の申し込みをした。

そこで問題が発生した。というか、今更問題に気付いた。

まずドラムがいない。

ボーカルもキーボードもいない。

曲も決まってない。

バンド名も決まってない。

相変わらずアンプがない。

何故こんなガバガバの状態でエントリーしてしまったのか。

それから文化祭までの半年間は大忙しだった。その半年間で、とりあえず二人でドラムを買った。(通販で五万円ちょい、pearl。)

憧れていたマーシャルのアンプを買った。

満足に弾けない癖に、ベースとギターを十万円くらいのFenderに新調した。

曲を決めて、本格的にスタジオを借りて練習した。

物事が順調に進みだしたが、ドラムは決まらなかった。

一時期は私一人でベース、ボーカル、キーボード、バスドラムを担当したこともあった。

出来ないこともなかったが、大道芸みたいになった。


いよいよ文化祭一週間前になった。

それでもドラムだけが最後まで決まらなかった。

もう無理だと思いつつ、クラスメイト一人一人に魔界と二人で土下座して頼み込んだ。

クラスメイトからの返事は良いものではなかった。

当たり前だ。

一週間でイチからドラムを覚えろと言われたら、私だって拒否する。

しかも高校三年生の秋だ。

バンドなんかして浮かれるな、と、先生の視線は冷たかった。

ほとんど諦めかけていて、こりゃ大道芸するしかないな……と思っていた時、話したこともないような子にダメ元でお願いしたところ、「やってみたい」とのまさかのお返事。

救世主、バタさんの登場である。

バタさんはドラムどころか楽器の経験がなかったが、とにかく一週間後が本番だったので縋る思いでお願いした。


それから私と魔界とバタさんで、私の部屋で毎日猛特訓。

本物のドラムをバシバシ叩き、アンプに繋いだギターとベースを掻き鳴らす。

ベースボーカルに落ち着いた私は、大声で歌う。

想像を絶する騒音だったと思うが、近所のオバさんには毎朝掃除機の轟音で起こされるので喧嘩両成敗だった。

母親も見逃してくれた。


遂に文化祭本番。

バタさんのドラムの才能は無事開花し、なんかもう私と魔界より普通に上手かった。

演奏が始まると、友達が沢山ステージの前まで来てくれた。

今までで一番良い演奏をした。本当に楽しかった。

良い意味で、結成一週間のバンドの演奏ではなかったと思う。

そんな私のバンド名は「超多忙」だ。

魔界、バタさん、私の夢を叶えてくれてありがとう。

二人には一生頭が上がりません。